去る1月26日の日曜日は「まつもと市民芸術館」まで、待ちに待った「スリーハンサムズ」のコンサートに行きました。
「信濃毎日新聞」より
1972年に結成した「NSP」の中村さんと平賀さんに「ふきのとう」の細坪さんが加わって「スリーハンサムズ」を結成したということです。
NSPは岩手県の一関工業高等専門学校の同級生だった3人が、アマチュアバンドからスタートしたのですが高専といえば、国立で学業も優秀な方達だったと思います。
結成から15年後の1987年に活動を休止しますが、天野さんはソロでも活動を続けていたようです。そして、2002年に再び3人で活動を再開しました。
そして全国ツアー初日、天野さん最初の曲は泣いてしまって歌にならなかったということです。再結成できたことがほんとうにうれしかったんだと思います。
その2年後の4月、全国ツアーで松本に来ていただいたのです。最初に何で知ったのかは忘れてしまいましたが、空かさず女房に頼んで、音楽好きな前の会社の先輩ご夫婦も誘って、かなり前列の最高にいい席のチケットを手にすることができました。
最初は何を歌ってくれるのだろうか、ドキドキワクワクしながら耳を澄ましていました。当然聞き覚えのある前奏、その曲は自分が一番好きな「弥生冷たい風」です。
懐かしくて、うれしくて、年甲斐もなく涙を流して聞いていました。この歌を最初に聞いたのは、確か高校卒業間近のころだったと思います。さみしいけど、なんといい曲だろうかと思いました。NSPってどんな方達だろうと想像を膨らませたものです。
当時は、レコードなんて買うお金もなく、NHK FMのディスクジョッキーで新しい曲を録音するのが楽しみでした。そして、ヒット曲「夕暮れ時はさびそう」デビュー曲「さようなら」懐かしい曲を次々歌っていただきました。
「夕暮れ時はさびそう」は、一関市を流れる磐井川の堤防で天野さんご自身が作った歌だということです。この曲といえば、中村さんのオカリナの音色がいいですよね。中村さんはこのオカリナが好きで、今でも同じものを大事に使っているのだそうです。
この年の2月、天野さんは大腸癌が見つかりましたが、活動を続けたということです。翌年2005年7月1日脳内出血して病院で亡くなられました。
そして昨年、2019年7月1日この磐井川の河川敷に「一関メモリアルスポット」が完成したということです。更に東北新幹線の一ノ関駅の発車のチャイムは、この「夕暮れ時はさびそう」なのだそうです。いずれにしても、仕事が変わって環境の変化に落ち込んでいる時期だったので、とても元気をいただきました。
そして、天野さんが亡くなられたその翌年「長野NBSホール」だったと記憶していますが、天野さんと親交の深かったアーティストの皆さんの話を、ビデオで紹介していただいた企画にも参加しました。けれども自分は、最初に「さようなら」を3人で歌っている映像を見ただけで、さみしくて誰がなんと言っていたのかさっぱり耳に入りませんでした。この企画にも中村さんと平賀さんは来てくれていたんですね。
平賀さんはレコード会社の仕事に専念するということでしたので、もうステージに立つことはないのかと勝手に思っていたので、スリーハンサムズのコンサートは夢のような出来事だと思っています。
そのまた2年後の6月中村さんが、「長野NBSホール」に来てくれました。
またまた、その時のチケットを膨大な日記帳の中から見つけました。
天野さんが細坪さんと親交が深かったということは知っていましたが、スリーハンサムズとして平賀さん中村さんと共に活動しておられたとは、驚いたのと同時に何ともうれしいことかと思いました。この日は、スリーハンサムズのCDは品薄のようなので、売られていませんでしたが、細坪さんのCDを買わせていただきました。
天野さんが亡くなられて何ともさみしいことですが、この日このメンバーの皆さんと、この会場の皆さんの中に生きているという気がしました。
そして、けして風になっているとは思いません。生まれて来る前の世界に戻って、阿弥陀如来さまにお導きいただいて、極楽浄土にも行かれたかも知れませんが、もうすでにギター大好き少年に生まれ変わっていることだと思います。
アンコールに答えて3曲も歌っていただきました。最後に「また会いましょう」と言ってステージを後にしましたが、けして無理しないでご活躍下さい。そして、いつかまた是非長野県に来て下さい。