日付の入った写真を見ると「97.7.21」とあったので、「思い出③」の翌年に間違いなさそうです。写真はどれがどの順番やら、とても怪しいのですが、この年は、扇沢から蓮華岳ー針ノ木岳ースバリ岳ー赤沢岳ー鳴沢岳ー岩小屋沢岳の山行だったと思います。

黒部ダムの長野県側の玄関口、扇沢駅の左の沢をしばらく歩くと、針ノ木雪渓に入ります。けっこう勾配がありますので、軽アイゼンをつけました。雪渓の脇はチングルマが見ごろだったと思います。

徐々に勾配がきつくなりますが、「雪渓の喉」と呼ばれる細くて急な斜面を過ぎると、もうすぐ針ノ木峠です。

今晩お世話になる針ノ木小屋は、標高2536mの針ノ木峠に建っています。「山を想えば人恋し、人を想えば山恋し」の句で有名な百瀬慎太郎さんが創設した山小屋です。宿泊の手続きをしながら、ご主人と思われる方だったので、考えるともなしに「百瀬慎太郎の血筋の方ですか」と聞いたところ、「はい、孫に当たります」と答えられました。
何ともびっくりして、「今日はすごい方とお行き会いしました」と言うと、「いや、別にすごくはないですがね」と言っておられましたが、自分としてはかなり驚いた覚えがあります。
百瀬慎太郎は、大町市の旅館「對山館」の家業を経営しながら、日本山岳会に入り、大正5年(1916年)大町に鉄道が通って駅ができると、登山客が増加したため翌年1917年に大町登山案内人組合を設立、現在の登山ガイド組織の先駆者として、北アルプス登山の歴史に大きな貢献をされた方です。
家業の「對山館」には、「ウォルター・ウエスト」や「若山牧水」などの著名人も泊まれたということです。大正14年に、北アルプス裏銀座コースや後立山連峰の玄関口として拠点となる山小屋「大沢小屋」を創設、昭和5年にはこの「針ノ木小屋」を創設しました。
後に、長女 美江さんが経営を引き継ぎ、1970年には美江さんの長男で現在のオーナー百瀬 堯さんが引き継いでいるということです。毎年6月第1日曜日には、百瀬慎太郎氏の業績を讃える「慎太郎祭」が開催され、北アルプスの開山祭と共に、様々なイベントが開かれます。

早速、荷物を置かせていただいて蓮華岳に登ってみましょう。標高2799mかなり存在感のある山です。白い輝石安山岩とハイマツの緑がきれいですが、この日は残念ながらガスが出てきてしまいましたので、頂上の展望は期待できませんでした。
一般的には、針ノ木峠から白馬岳までが「後立山連峰」と言われていますが、こちらの蓮華岳が後立山連峰の南端とも言われています。

蓮華岳、針ノ木岳は、コマクサの群生地としても有名です。霧がかかり、細かい安山岩のガレ場はコマクサにとって、最高の生育環境といえます。


この日も梅雨明けしたばかりのトップシーズンでしたが、針ノ木小屋はさほど混雑した様子でもなくて安心しました。低いところに窓のある、天井裏みたいな楽しい部屋でゆっくり休ませていただきました。朝のうちはまたガスが出ていましたが、針ノ木岳をめざして一気に登りましょう。

さて、針ノ木岳までの工程がどんなだったか忘れてしまいましたが、コマクサの群生地に来た頃はすっかり天気が良くなりました。初めて白い花の咲いている株を見つけたのですが、確認できるような写真は撮れませんでした。


針ノ木岳頂上が近づいてきました。そして2821m針ノ木岳に着きました。

展望が楽しみだったのですが、少々霞んだ感じがします。これはこれで「あの山、どこだろう」と、探す楽しみがあって良いかもという気がします。


タカネツメクサにシコタンソウでしょうか?やっぱりピンボケでした。

こちらがスバリ岳かな?針ノ木岳から種池山荘までの工程はすっかり記憶から遠ざかってしまっています。

赤沢岳だったかな?西尾根には黒部湖まで続く岩稜で、この尾根の途中2533m地点には「猫の耳」と呼ばれる奇岩があります。猫の後頭部のシルエットのようでかわいい形をしています。(右の写真)

こちらは鳴沢岳だったかな?この赤沢岳と鳴沢岳のはるか下辺りを扇沢から黒部ダムまで関電針ノ木トンネルがあって、以前はトロリーバスだったのですが、今は電気バスが運行しています。
人間が踏み入れることすら拒むかのような黒部川上流に、こんな壮大な計画を立てて実行したわけですから驚くばかりです。以前、東京電力も尾瀬に巨大なダムを建設する計画があったようです。柏崎刈羽原発が再稼働されるということですが、電力に限らず、色々な意味で環境に配慮した生活を心がけたいと思います。

左手の眼下に黒部ダムを見ながら進みます。黒部ダムの対岸は立山連峰ですが、雄山の頂上は雲の中でした。

岩小屋沢岳から種池山荘までは、距離はありましたが、安心して歩ける稜線だったような気がします。鹿島槍は西から雲が滝のように流れていました。すっかり夕刻でしたが、暗くならないうちに扇沢に下らなくてはいけないので、ほとんど駆け足で柏原新道を下っていきました。
下に降りたころ扇沢には人気がありませんでした。タクシーが一台、通りがかりにスピードを落としてくれましたが、駐車場を指さすと手を合上げて下っていきました。
針ノ木峠というと百瀬慎太郎の他にも、遥か戦国の世に極寒の立山、ザラ峠と針ノ木峠を超えたとされる佐々成正を思い浮かべます。佐々成正は織田信長の精鋭部隊「黒母衣衆(くろほろしゅう)」の筆頭だったということです。「本能寺の変」で信長が討たれると暗雲が立ち込め、家康に挙兵を求めるために、わずかな供を従えて浜松に向おうとしましたが、周りは敵だらけです。
そこで、敵の目を避けるために、ザラ峠、針ノ木峠を超えたとされていますが、飛騨経由で安房峠を超えたという説に、山岳地帯を避けるために、日本海沿岸を北上して、糸魚川を経由したのではないかという説があるようです。
今は男女ともに薄くて、丈夫でお洒落な用品がそろっていますから、ゴワゴワ、チクチクのニッカズボンなどすっかり見なくなってしまいましたが、この頃は、ニッカズボンを初めて買って、嬉しくていつも使っていました。久しぶりに使ってみようかなと思って引っ張り出したら、虫に喰われて穴だらけになっていました。
























































































































