satoyamanekokunのブログ

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神社仏閣を訪ねて(2)「親鸞聖人の軌跡を巡り」

2016年8月7日家族で海に行った帰りに、京都で念仏が禁止されて、流罪となった親鸞聖人の足どりを訪ねてみました。

師、法然上人は四国讃岐に、親鸞聖人は越後に送られたということですが、越後は妻 恵信尼さまの生まれ故郷です。
流罪とはいえ、かなりご配慮があった上での計らいだったような気もします。

長旅の末、ご上陸されたところは、上越市 国府の居多ヶ浜という地で、ちょうど現在の直江津海水浴場の辺りになるようです。

少し離れて、同じような碑が2つ建っていますが、何れにしてもこの辺りにご上陸されたのだと思われます。


この地に着かれて、おそらくこの高台から海を眺められたに違いないと思われます。そして、様々な思いが脳裏をよぎったことでしょう。


ここ、ご上陸の地では、木造の親鸞聖人座像が祀られている「見真堂」の他、親鸞聖人のブロンズ像や碑にレリーフなどが建立されていて、今も尚、親鸞聖人が新潟県の人たちに慕われていることが分かります。

この地よりわずかに東へと向かうと、親鸞聖人が最初にお参りされたという、越後国の三社の一つ「居多神社」があります。元々神様が残した遺跡だという説があるほど神聖な雰囲気を感じます。近ごろは、縁結びのパワースポットとしても有名な神社のようです。



そして、わずか北に向かって坂を上った平地には、広い境内の「五智国分寺」があります。その本堂の右手の奥には、親鸞聖人が流罪中に住まわれていた「竹の内草庵」があります。



何れにしても、この地を拠点に流罪中の業務をこなして、許される範囲の中での布教活動もしておられたのではないかと思われます。

自分達が次に向かったのは、「本願寺国府別院」です。こちらは、流罪を解かれた親鸞聖人が、恵信尼さまと住まわれた「竹ヶ前草庵」があった地だということです。
この地で、恵信尼さまとしばらく過ごされた後、善光寺に約100日間滞在して、東国に向かわれたのでしょうか?


「竹ヶ前草庵」は、本堂に向かって左手にあったということです。本堂右手には、親鸞聖人が、居多ヶ浜にご上陸されたときの様子を再現されたというブロンズ像があります。



最後に訪ねたところは、同じ上越市でも更に内陸の高田に向かいました。2015年の夏、春日山城趾と、上越市埋蔵文化財センターを訪れたとき、その資料館の職員さんに教えていただいた、「浄興寺」に行きました。


親鸞聖人のご遺命により、御頂骨が常陸国の稲田の「浄興寺」に納められましたが、戦火をうけて信濃国 長沼に移りおよそ300年の後、永禄4年川中島合戦の兵火を浴びて堂宇炎上し、永禄10年上杉謙信公により、春日山城下に堂宇が建立されました。

さらに、越後国福島城下から高田城築城と共に高田へ移り、寛文5年地震により堂宇が崩壊して、現在の地に建立されたとのことです。親鸞聖人の御頂骨は、西本願寺また東本願寺に分骨された後、明治21年、こちらの「浄興寺」に本廟が創建されました。寺宝に、親鸞聖人自筆の六字名号もあるということです。
何れにしても、稲田の「浄興寺」から高田の「浄興寺」に聖人の御頂骨が納められるまでには、何とも大変な労力を要したことでしょうか?


親鸞聖人が、御幼少の頃から目にしておられたと思われます、京都「法界寺」の阿弥陀如来さまです。京都で念仏を広められた親鸞聖人が、流罪となった地で現在も尚、多くの方々に慕われているのですから、その生き方のすばらしさに驚くばかりです。


自分が子供の頃は、お寺に仏像は非日常の世界で何となく怖いというイメージがありましたが、今は神社仏閣に仏像が大好きです。そして、こちら「法界寺」の阿弥陀如来さまは、何人も極楽浄土にお導きして下さるような、何とも優しい顔立ちをしておられます。

思えばこの前の年にも同じ頃、家族で海に行ったのですが、お昼近くにみんながクラゲに刺されて、午後は海に入るのが怖くなってしまいました。そこで午後は
春日山城趾に行くことにしました。それはそれで楽しかったのですが、前年といい今年といい、何か見えないパワーにお導きいただいたような気がいたしました。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏